体罰にあらず
一、
体罰にあらず。
昨今、問題となっているスポーツの指導において為される暴力行為は体罰ではない。
体罰の定義については、法律で規定されている訳ではなく、広狭あるようであるが、おおむね体罰とは、保護監督権を有する者が懲戒権の行使としてその対象となる者の身体に対して行う有形力の行使である、ということができよう。あくまで体罰は、「罰」である以上、規則・規律等何らかの規範に反する、懲戒の対象となるべき行為があった場合に為されるものである。とすれば、スポーツ選手が練習中に集中力を欠いたとしても、あるいは試合中にミスを犯したとしても、それらは何ら規範に反した行為ではなく、懲戒の対象となるべき行為とはいえないのであるから、「罰」としての体罰が行われる前提を欠くといえる。従って、そのような場合に、指導者が選手の身体に対して物理的な力を加えるならば、それは体罰ではなく、単なる暴力ないし暴行にすぎない。
今、スポーツ指導において一定の範囲で身体に対して為される有形力の行使を所謂「愛の鞭」として許容することができるかが問われている、ということになる。
従前、日本においてスポーツを極めるには「根性」という通俗的だが、他の言葉に置き換えるとその意味する内容のすべてをすくいきれないある種の精神性が重要であった。それを鍛えるために「しごき」が当然の如く行われ、その一環としての「鉄拳制裁」は「愛の鞭」として容認されてきた。やがて合理と懦弱が瀰漫する時代となった。たしかに、練習中に水を飲ませない、休憩をさせないといったたぐいの、およそ技能の習熟はおろか根性の鍛錬にすら資することにならないであろうしごきは、無益どころか有害であることに間違いない。しかし、厳しい指導のほんの少し先に存在する「愛の鞭」はほんとうに無益・無用なのであろうか。スポーツをしない私は、明快な答えを持ち合わせてはいない。スポーツに携わる人々はたんと議論されるがよろしい。
二、
ここで問題なのは、メディアがこの問題を「体罰問題」として取り上げていることである。
何度も言うが、スポーツ指導における暴力は体罰ではない。罰の対象となるべき罪・咎は存在しないのである。これを体罰として論ずることは、本来の体罰についての議論を誤った方向に導くことになる。メディアがこの「体罰」を闇雲に非として報道し続けるならば、やがて学校に、特に停学・退学といった適切な懲戒を行うことができない義務教育の場に悪しき影響が及ぶことになろう。
なるほど、学校教育法11条には、教師に懲戒権の行使が認められているが、体罰は除かれている。しかし、実際の教育の場では、教育者と保護者との揺るぎない信頼関係の中で、保護者は常に学校に高い価値を措く姿を子供に示し続け、規範遵守は個人の権利主張に優越するとの共通認識の下に、かつては懲戒としての体罰がおおむね適切に行われていた。保護者は一般的にはそれを暗々裏に是認してきた。もちろん、過度の体罰が行われることもあったが、それとて元を質せば我が子に非があるゆえのものであって、それを省みることなく教師の体罰を非難するなど恥ずべきことであった。
ところが、1980年代に入り、体罰がメディアで大きく報じられるようになり、その多くは体罰を行った教師を断罪することに終始した。それ以降、教師は体罰に対する学校内外の過剰な反応に萎縮し、無力感・虚無感を味わうことになった。教師は、いかに子供が規則・規律に違反しようが、授業・行事を妨害しようが、その場で制止しえないことに切歯扼腕し、子供は、教師は何があっても手を上げることができないと高をくくり、見くびり始めた。自らの規範違背を棚に上げて、教師の体罰をあげつらう子供に同調する保護者やメディアに子供はますます増長した。
時を同じくして「学級崩壊」や「いじめ」という言葉が流布し始めたのは偶然ではなかろう。学級の中にそのような子供が数名いた場合には、学級運営は破綻し、崩壊へと至る事態も、教師の指導力不足・経験不足が重なれば、容易に起こりうる。また、荒れた学級内ではなおのこと、表面上荒れているとは認められない学級であっても、教師に対する畏怖など抱くことのなくなった子供達は教師を侮り、歯止めなく執拗に特定の子供をいじめ続けるということも容易に想像できる。
それが、またぞろ、起ころうとしている。
法務省は、体罰は、「いじめ」のモデルになったり、校内における暴力容認の雰囲気を作り出したりするなど、児童・生徒の「いじめ」や不登校を誘発・助長する要因になるとも考えられているという私見とはまったく逆の見解を示している(「主な人権課題(2)」、法務省)。私の見解が的外れであることを祈りたい。
体罰が禁止された中で、教師は常にぎりぎりの選択を迫られており、当の本人のためにも、他の子供のためにも止むをえず子供の身体に手をかけてしまうことがある。そのような場合に、裁判において種々の事情を総合勘案し、当該行為は懲戒の範囲内の行為であって、体罰には当たらないと認定することによって、最終的に当該教師を救済するほかないという事態は、教師のみならず、子供にとっても果たして好ましいものといえるのであろうか。
文科省は、平成19年2月5日付けの「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」と題された通達で体罰について「身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、蹴る等)、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)に当たると判断された場合は、体罰に該当する」としている。およそ身体に対する侵害は肉体的苦痛を伴うのが一般であるから、体罰とは、肉体的苦痛を与える懲戒であるということになる。
しかし、これはあまりにも体罰の定義としては広すぎる。何ゆえに懲戒に一切の肉体的苦痛が伴ってはならないのか。悔い改めを促すために肉体的苦痛を与えてはならないとする根拠はどこにあるのか。反省を求めて正座をさせるといった古典的ではあるが真っ当な懲戒すら許さないなど、教師に手枷足枷をはめておいて、学校の荒廃を教師の責めに帰するのは酷にすぎよう。
やはり、先の11条は改正すべきである。原則として懲戒権の行使として身体に対する有形力の行使は必要最小限の範囲で認める、とすべきである。例えば、体罰の定義を狭く解して、体罰に当たらない懲戒行為の範囲を広げるといった弥縫策はとるべきではない。懲戒行為には体罰を伴うこともあると、懲戒を実効あらしめるべく体罰が為されることも当然認められると宣言すべきなのである。その本質は、規範に反した場合、それ相応の不利益を受けることが当たり前であるということ、それは力による痛みや怖れを伴うこともあるということであり、何よりも重要なことは、そのことを子供に向かって毅然と冷厳に言い放てることである。
この原則の転換は、荒び行く学校を再生し、賦活する有効な方法の一つになるであろうと考えている。
もとより、体罰を是認することの危うさは承知している。そうであるとしても、しかし、我々が一般的に考えている以上に、そのことを子供に向かって毅然と冷厳に言い放てることが重大な意義を持つことに静かに思いを巡らせるべきである。子供が規範に反してしまうことはある。規範に反してしまった子供に対してあやふやな曖昧な姿勢で臨み、畏怖を生じさせるべき報いを何ら与えず、うやむやな態度をとり続けるならば、その子が規範に対して如何なる意識をもつようになるのか。畏怖と畏敬と規範と倫理、見誤ってはならない。
体罰にあらず。
昨今、問題となっているスポーツの指導において為される暴力行為は体罰ではない。
体罰の定義については、法律で規定されている訳ではなく、広狭あるようであるが、おおむね体罰とは、保護監督権を有する者が懲戒権の行使としてその対象となる者の身体に対して行う有形力の行使である、ということができよう。あくまで体罰は、「罰」である以上、規則・規律等何らかの規範に反する、懲戒の対象となるべき行為があった場合に為されるものである。とすれば、スポーツ選手が練習中に集中力を欠いたとしても、あるいは試合中にミスを犯したとしても、それらは何ら規範に反した行為ではなく、懲戒の対象となるべき行為とはいえないのであるから、「罰」としての体罰が行われる前提を欠くといえる。従って、そのような場合に、指導者が選手の身体に対して物理的な力を加えるならば、それは体罰ではなく、単なる暴力ないし暴行にすぎない。
今、スポーツ指導において一定の範囲で身体に対して為される有形力の行使を所謂「愛の鞭」として許容することができるかが問われている、ということになる。
従前、日本においてスポーツを極めるには「根性」という通俗的だが、他の言葉に置き換えるとその意味する内容のすべてをすくいきれないある種の精神性が重要であった。それを鍛えるために「しごき」が当然の如く行われ、その一環としての「鉄拳制裁」は「愛の鞭」として容認されてきた。やがて合理と懦弱が瀰漫する時代となった。たしかに、練習中に水を飲ませない、休憩をさせないといったたぐいの、およそ技能の習熟はおろか根性の鍛錬にすら資することにならないであろうしごきは、無益どころか有害であることに間違いない。しかし、厳しい指導のほんの少し先に存在する「愛の鞭」はほんとうに無益・無用なのであろうか。スポーツをしない私は、明快な答えを持ち合わせてはいない。スポーツに携わる人々はたんと議論されるがよろしい。
二、
ここで問題なのは、メディアがこの問題を「体罰問題」として取り上げていることである。
何度も言うが、スポーツ指導における暴力は体罰ではない。罰の対象となるべき罪・咎は存在しないのである。これを体罰として論ずることは、本来の体罰についての議論を誤った方向に導くことになる。メディアがこの「体罰」を闇雲に非として報道し続けるならば、やがて学校に、特に停学・退学といった適切な懲戒を行うことができない義務教育の場に悪しき影響が及ぶことになろう。
なるほど、学校教育法11条には、教師に懲戒権の行使が認められているが、体罰は除かれている。しかし、実際の教育の場では、教育者と保護者との揺るぎない信頼関係の中で、保護者は常に学校に高い価値を措く姿を子供に示し続け、規範遵守は個人の権利主張に優越するとの共通認識の下に、かつては懲戒としての体罰がおおむね適切に行われていた。保護者は一般的にはそれを暗々裏に是認してきた。もちろん、過度の体罰が行われることもあったが、それとて元を質せば我が子に非があるゆえのものであって、それを省みることなく教師の体罰を非難するなど恥ずべきことであった。
ところが、1980年代に入り、体罰がメディアで大きく報じられるようになり、その多くは体罰を行った教師を断罪することに終始した。それ以降、教師は体罰に対する学校内外の過剰な反応に萎縮し、無力感・虚無感を味わうことになった。教師は、いかに子供が規則・規律に違反しようが、授業・行事を妨害しようが、その場で制止しえないことに切歯扼腕し、子供は、教師は何があっても手を上げることができないと高をくくり、見くびり始めた。自らの規範違背を棚に上げて、教師の体罰をあげつらう子供に同調する保護者やメディアに子供はますます増長した。
時を同じくして「学級崩壊」や「いじめ」という言葉が流布し始めたのは偶然ではなかろう。学級の中にそのような子供が数名いた場合には、学級運営は破綻し、崩壊へと至る事態も、教師の指導力不足・経験不足が重なれば、容易に起こりうる。また、荒れた学級内ではなおのこと、表面上荒れているとは認められない学級であっても、教師に対する畏怖など抱くことのなくなった子供達は教師を侮り、歯止めなく執拗に特定の子供をいじめ続けるということも容易に想像できる。
それが、またぞろ、起ころうとしている。
法務省は、体罰は、「いじめ」のモデルになったり、校内における暴力容認の雰囲気を作り出したりするなど、児童・生徒の「いじめ」や不登校を誘発・助長する要因になるとも考えられているという私見とはまったく逆の見解を示している(「主な人権課題(2)」、法務省)。私の見解が的外れであることを祈りたい。
体罰が禁止された中で、教師は常にぎりぎりの選択を迫られており、当の本人のためにも、他の子供のためにも止むをえず子供の身体に手をかけてしまうことがある。そのような場合に、裁判において種々の事情を総合勘案し、当該行為は懲戒の範囲内の行為であって、体罰には当たらないと認定することによって、最終的に当該教師を救済するほかないという事態は、教師のみならず、子供にとっても果たして好ましいものといえるのであろうか。
文科省は、平成19年2月5日付けの「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」と題された通達で体罰について「身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、蹴る等)、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)に当たると判断された場合は、体罰に該当する」としている。およそ身体に対する侵害は肉体的苦痛を伴うのが一般であるから、体罰とは、肉体的苦痛を与える懲戒であるということになる。
しかし、これはあまりにも体罰の定義としては広すぎる。何ゆえに懲戒に一切の肉体的苦痛が伴ってはならないのか。悔い改めを促すために肉体的苦痛を与えてはならないとする根拠はどこにあるのか。反省を求めて正座をさせるといった古典的ではあるが真っ当な懲戒すら許さないなど、教師に手枷足枷をはめておいて、学校の荒廃を教師の責めに帰するのは酷にすぎよう。
やはり、先の11条は改正すべきである。原則として懲戒権の行使として身体に対する有形力の行使は必要最小限の範囲で認める、とすべきである。例えば、体罰の定義を狭く解して、体罰に当たらない懲戒行為の範囲を広げるといった弥縫策はとるべきではない。懲戒行為には体罰を伴うこともあると、懲戒を実効あらしめるべく体罰が為されることも当然認められると宣言すべきなのである。その本質は、規範に反した場合、それ相応の不利益を受けることが当たり前であるということ、それは力による痛みや怖れを伴うこともあるということであり、何よりも重要なことは、そのことを子供に向かって毅然と冷厳に言い放てることである。
この原則の転換は、荒び行く学校を再生し、賦活する有効な方法の一つになるであろうと考えている。
もとより、体罰を是認することの危うさは承知している。そうであるとしても、しかし、我々が一般的に考えている以上に、そのことを子供に向かって毅然と冷厳に言い放てることが重大な意義を持つことに静かに思いを巡らせるべきである。子供が規範に反してしまうことはある。規範に反してしまった子供に対してあやふやな曖昧な姿勢で臨み、畏怖を生じさせるべき報いを何ら与えず、うやむやな態度をとり続けるならば、その子が規範に対して如何なる意識をもつようになるのか。畏怖と畏敬と規範と倫理、見誤ってはならない。
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