「歴史認識」の憂鬱(2)~歴史教科書と原爆資料館
一、韓国と中国の歴史教科書
10年ほど前に、韓国や中国の歴史教科書の邦訳に目を通したことがある。明石書店が『世界の教科書シリーズ』として出版している『韓国の中学校歴史教科書-中学校国定国史』(2005年)と『中国の歴史-中国高等学校歴史教科書』(2004年)である。噂にたがわず凄まじいものであった。これで教育を受けた者が、日本に憎しみを抱かぬ方がむしろ難しいといえよう。何より、その内容の真偽はともかく、これほど偏頗で他の一国を罵るかの如き歴史書をほかならぬ国定教科書としていること自体に、むしろその国の民度ないし文化的成熟度が問われるとは考えないのであろうか。国民は内心忸怩たる思いを抱いているのかもしれない。そうだと信じたいところである。
これらの国の教科書については、「韓国の歴史教科書を読む」(http://www7.plala.or.jp/juraian/ktextbook.htm)、「中国の歴史教科書を読む」(http://www7.plala.or.jp/juraian/ctextbook.htm)というウェブページに詳しく解説されており、この拙文を書くに当たって改めて読ませて頂いた。この樹懶庵(じゅらいあん)というウェブサイトには、「台湾の歴史教科書を読む」(http://www7.plala.or.jp/juraian/ttextbook/ttextbook.htm)というページもあり、これと前二者を比較して読めば、それら二国の歴史教科書の異様さは一目瞭然である。
韓国や中国が言っていることは、多分ある程度は正しいのではないか、と密かに思っている日本人は決して少なくはないが、そのような日本人ですらこれら二国の歴史教科書を読むならば、おそらくは開いた口が塞がらないことになろう。
ただ、韓国では、2007年に国定教科書制度が廃止され、検定制度が導入されており、検定を通過した複数の教科書の中から各学校が使用する教科書を選ぶという日本と似た制度が採用されている。国定制度が廃止されたとはいえ、大多数の学校で採択される歴史教科書はおおむね国定教科書の記述を踏襲するものがやはり主流のようである。
しかしながら、日本への憎しみと恨みをたぎらせ続ける韓国にあって、日本統治時代の明暗両面を客観的に評価しようとする「植民地近代化論」に立つ歴史家達によって、2008年に『代案教科書・韓国近現代史』が検定を通っていないものの一般の書籍として出版されているそうである。これについても上記の樹懶庵亭主の「韓国の歴史教科書を読む」で解説されている。
今はまだ少数派であろうが、そのような良識ある韓国人の活躍に期待し、遠い将来、彼等の思いが朝鮮半島全土に行き渡らんことを密やかに祈りたい。
朴槿恵大統領は、かつて、この代案教科書の出版記念会でその支持を表明したそうである。にも拘わらず、その後の彼女の言動は周知の通りであり、韓国政府部内には再び教科書国定化への揺り戻しの動きが顕在化しているとのことである(「教科書の国定化で朴槿恵が陥る深刻なジレンマ」Newsweek、2014.9.12、http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2014/09/post-3390.php)。
韓国人の日本に対する恨といわれる憎悪と劣等意識とのアンビバレントな葛藤は、彼等自身が乗り越えるしかないのである。
その国の歴史教科書をみれば、その国が他の国に対して如何なる姿勢・態度で臨んでいるか、その基底となる本質を知ることができる。日本を含むこれら三箇国の歴史教科書の英訳をPDF化し、誰でも自由にダウンロードして読むことができるようにすれば、そして、そのダウロード・ページのURLを世界中の主要紙に掲載することができれば、それだけで韓国・中国以外の国におけるこの歴史問題に関する「誤った認識」は、容易に正すことが可能となろう。外務省には是非とも実行して頂きたい。
二、原爆資料館と独立記念館と南京大虐殺紀念館
1.長崎原爆資料館
昨年、久しぶりに長崎原爆資料館を訪れた。随分前に、前身の長崎国際文化会館の原爆資料センターには、何度か訪れたことはあったが、1996年に新設された現在の原爆資料館を訪れるのは初めてであった。
B-29爆撃機ボックスカー(Bockscar)によって投下されたプルトニウム239を用いた原子爆弾、ファットマン(Fat Man)の模型が展示され、エノラ・ゲイ(Enola Gay)によって広島に投下されたウラン235を用いたリトルボーイ(Little Boy)より威力が大きいことなどが説明されている。このような資料館ではお馴染みのジオラマも実に精巧に造られており、原爆投下時の状況やその後の放射能の影響等々、客観的かつ詳細なデータが、様々な工夫が凝らされて展示されていた。以前の原爆資料センターとはかなり異なっていた。
総じて、その展示は、情緒的な扇情的な要素が極力排除され、客観性・正確性に主眼が置かれている印象である。
2.原爆投下
マンハッタン計画が最終段階に進む中、ドイツが1945年5月に降伏してしまい、原子爆弾の標的は日本しか残されていなかった。その日本もほどなく降伏するであろうとの観測を得ていながら、米国は実験に成功したばかりの原子爆弾を日本に投下したのである。
米英ソのヤルタ会談(1945年2月)で、ソ連がドイツの降伏から3か月以内に対日本戦に参加することが極秘裡に決められており、米国はソ連の対日参戦より前に原爆を日本に投下して、戦後処理でソ連より優位に立ちたいと考えていたとされるが、それだけでは原爆投下のすべての説明がつく訳ではない。
もう少し仔細に見てみる。1945年7月16日、ニューメキシコ州オテロ郡のアラモゴード爆撃試験場内の一角にあるトリニティ・サイトにおいて人類史上初の核実験「トリニティ実験(Trinity test)」が行われ、成功する。これは、長崎に落とされたファットマンと同じ構造のプルトニウムを用いたインプロージョン方式(プルトニウム爆縮式)の原子爆弾の爆発実験であった。そのわずか3週間後、実験の行われていないもう一方の方式であるウラン235を用いたガンバレル型の原子爆弾、リトルボーイが広島に落とされるのである。
ガンバレル型も、本来なら実験を経て実戦に投入されるのが通常の筈である。しかし、原子爆弾の実戦投入が急がれる中、ガンバレル型に必要なウラン235の濃度が90%以上(最低70%以上)の高濃縮ウランは生成に非常にコストがかかる上に、生成できる量がわずかであったため、爆発実験に使う余裕がなく、インプロージョン爆縮式が実験に成功したことを踏まえ、ガンバレル型は実験を兼ねて実戦でいきなり使用することが要請された、とする説明がある。実験を経ていない原爆を実戦で使用するとなれば、それを先に持ってきて、万が一失敗したとしても次が成功する方が、成功の後に失敗するより相手国に与える脅威は大きいと判断されたのであろうか。
そういった説明に符合し、真実性を与えるかの如く、テニアン島には、両方式、リトルボーイとファットマンの二発が用意され、リトルボーイが先に使用されたのである。
また、広島への原爆投下が成功した後、さらに長崎へ投下する必要があったのか。広島への原爆投下が成功した以上、しかもその知らせは脅威とともに瞬く間に世界中を駆け巡ったのであるから、米国は日本が降伏するのを、次の投下を匂わせつつ待つこともできた筈である。
これら二発は、マンハッタン計画で開発されてきた二つの異なる方式の原子爆弾であり、軍はそれぞれ実戦における実験を当初より望んでいたと考えられる。両方式の原爆による人体実験を行うからには、互いに影響の及ばない二箇所に投下する必要があったのである。原爆の破壊力を正確に測定するために、通常の爆撃があまり加えられていない広島、小倉、新潟、長崎が投下目標に選ばれ、原爆投下まで通常の空襲は行わないよう指示が為されていたことが明らかになっている。最終目標都市の優先順位は広島、小倉、長崎となり、当日の天候次第で目標都市が決定されることになり、8月6日は広島、9日は長崎となったのである。
原爆使用について、同じ白色人種に対してはいくら敵国であっても抵抗があったが、東アジアの有色人種に対してはさほど逡巡することなく決定されたとも言われる。マンハッタン計画に着手したフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人に対して強い人種差別意識を持っていたことはよく知られた事実である。
この米国の差別意識に基づいて為された、20万人を超える非戦闘員に対する核爆弾による未曾有の人体実験は、一都市に存在する全ての人及び物を殲滅するというその残忍さ、無慈悲さ、その後の長期にわたる放射能等による影響の甚大さを勘案するならば、如何なる理由があったにせよ、単なるmassacre(大量殺戮)ではなく、人類史上最も悪逆無道、悪辣無比の蛮行たるgenocide(大量虐殺)であるとの評価は避けられないであろう。米国の原爆投下は、ナチスのホロコーストと並んで人類史に刻まれ、永劫にわたって人類に記憶され続けることになる。
3.原爆資料館の展示
ところが、この長崎の原爆資料館には、原爆投下の理由ないし投下に至るまでの事情については、あっさりとした記述しか見られない。対日戦の早期終結のためと言われているが、巨費を投じたマンハッタン計画を誇示する目的もあったとし、ソ連との冷戦における最初の作戦という性格も有していた、といったごく一般的な説明が為されているに過ぎない。この点については、広島平和記念資料館の方は、米国は、1945年4月、日本国内17箇所を投下目標に選び、5月には京都、広島、横浜、小倉に絞り、原爆の効果を正確に調べるため目標都市に対する通常の空襲を禁止し、7月25日には広島、小倉、新潟、長崎と定め、最終的には8月2日、広島、小倉、長崎を目標とする投下命令を下したことなどが記され、実験目的でもあったことが示されている。しかし、原爆を投下した米国に対する厳しい断罪の言葉は、何度も館内を往ったり来たりしてみたが、何処にも見られない。広島平和記念資料館においても同様であろう。これについては、何とももどかしく、不満に思う人も多いのではなかろうか。
原爆投下後に関する展示は、当然その被害の悲惨さを訴えることに主眼がおかれるが、決して扇情的なものではなく、客観性・正確性に重点がおかれ、抑制的であると感じられた。以前の方が、生々しく、凄惨な展示が多かったような気がする。ここにおいても米国への憎悪や怨恨を煽り、駆り立てる展示は皆無である。
そして、展示は核兵器廃絶や核軍縮をテーマにしたコーナーへと移っていく。
4.原爆資料館と独立記念館と南京大虐殺紀念館
私は館内を巡りながら、もどかしさというよりも憤りすら感じ始めていた。所々に設置してある椅子の一つに腰を下ろして、少し気持ちを鎮めるため館内をゆっくりと見回してみた。原子爆弾を開発し、落とす必要もない場所へ投下してそこに住む人々を人体実験に供して虐殺したのは、ほかならぬ米国である。その米国を直接的に非難する言葉が一言も書かれていない原爆資料館に意味があるのか。広島の原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)の石碑に刻まれた例の主語なき「過ちは繰返しませぬから」に見られるようなあやふやで曖昧な平和の願い・平和の祈念など意味があるのか。貧しい智恵に強いて考えを巡らせた。
目の前を英米人とおぼしき数人と日本人のグループが何やら楽しいそうに話をしながら、私の前を通り過ぎていく。今や何処の観光地にも現れる中国人や韓国人も館内を回っている。
その時、ふと韓国の独立記念館や中国の南京大虐殺紀念館が頭に浮かんだ。浮かんだと言っても、実際に行ったことはないので、ウェブでそれらの公式サイトや訪問者の記事を見たことがあるに過ぎないのだが。彼此の違いは何か。
先ず、その名称。韓国、中国の両館は、日本が行った非道な行為を長く記憶に留めておこうとする意図があろうから、この種の博物館として一般的な「記念館」ないし「紀念館」という名が付されているが、少し特異なのは「南京大虐殺紀念館」である。その中国語の正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」であり、その公式ウェブサイトにある英語名は、"The memorial hall of the victims in Nanjing massacre by Japanese invaders"とされており、博物館の名称としては少し異様であり、日本への憎悪があからさまに見て取れる名称といえよう。これに対し、長崎・広島の両館は、単に「資料館」としており、あくまで原爆に関する客観的な資料を展示することが主眼であると取れる名称である。
南京大虐殺紀念館は、1982年に愛国主義教育推進のため全国に日本の侵略に関する記念館や記念碑を建立するよう鄧小平によって指示が出され、それに基づき1985年に建設された。奇しくも韓国の独立記念館も、1982年に独立記念館建立の発起大会が開かれ、1987年に開館している。長崎原爆資料館は、1955年にその前身である長崎国際文化会館の原爆資料センターが開館し、その後老朽化により1996年に建て替えられたものである。広島平和祈念資料館も同じく1955年に開館しており、2013年から大改修が行われ、2018年完了予定である。
韓国や中国の記念館や紀念館が、その展示が客観的な検証を経た事実に基づくものであるか否かは別として、醜悪でグロテスクともいえる展示方法で日本への憎しみや恨みを顕わにし続けていることは、夙に有名である。それらは歴史教科書にも通底する両国の意思と姿勢が露骨にむき出しとなっている場といえる。国家の存立の基点に邪悪な国家からの解放を据え、その正当性を高らかに謳い上げるという物語としての歴史はいずこにもあろうが、同時にその表示手法・表現方法には、国家の本性が端なくも顕わになる。それを見る者は、語られる客体ばかりでなく、その語り口に、語る主体の内奥に潜む他在へ向けられる意思の本質を垣間見ることになる。何ゆえにこのような手法・方法で見せようとするのか、見せられた者は否応なく問わざるを得ないであろう。
かたや、長崎・広島の資料館には、原爆投下の主体たる米国への憎しみや恨みどころか、その罪を問う文言すら殆どない。そこでは原爆投下までの経緯は淡々と語られ、投下の時点から「被爆」という原爆投下の主体無き言葉が多用される。投下主体を欠いたまま、「被爆」に関する事柄のみが縷々語られるのである。「繰返しませぬから」と本来誓うべき、人類史上最大の「過ち」を犯した米国への恨み辛みは、知らぬ間に核軍縮、核兵器廃絶といった世界平和の希求へと転換され、拡散し、おぼろにかすみ、雲散霧消してしまう。
このような展示方法に不満を持ち、憤りを感ずる人は少なくない。とはいえ、韓国や中国のような展示方法は、如何なる場合であっても、とるべきでないことは言を俟つまでもない。英米人と日本人が楽しげに館内を巡りつつ、時に哄笑が沸き起こっている様子を眺めながら、これでいいのではないか、と私には思えてきた。もどかしい曖昧模糊としたこの展示姿勢はあながち無意味ともいえないのではないか。罪を犯した者にいつの間にか赦しを与えるという日本人の精神性の懦弱さともいえる点における好ましい面ということができるかもしれない。爾後、米国人と如何なる関係を築くべきなのか、築きたいのか。この館内に、この館を訪れる人達の姿にその答えはある。
5.原爆投下に対して
「其の罪を悪んで其の人を悪まず」とは、『孔叢子』刑論にある孔子の言葉に由来するらしいが、その中国の南京大虐殺紀念館にそのような思念は寸毫も見出だすことはできない。韓国の独立記念館、然り。
日本人が言うべきことではないという。足を踏んだら、踏んだ人が謝るのは当然であるという。むべなるかな。踏まれた方は怒り、憎み、恨むのも当然というのであろう。しかしながら、米国は未だに原爆投下については正式に日本に謝罪をしていない。それどころか、多くの米国人は今もなお「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と信じている。このような内容の見解は、多くの米国の歴史教科書に原爆投下を正当化する立場のものとして掲載されている。2014年7月28日、原爆を投下したエノラ・ゲイの最後の搭乗員セオドア・ファン・カーク(Theodore Van Kirk)が亡くなった。ボックスカーの搭乗員は既に全員死亡しているので、これで原爆投下に直接携わった全ての飛行士は鬼籍に入ったことになる。彼もまた、その手記やインタビューで同様の発言をしている。
なお、彼の発言を取り上げ、その責任を問い、彼を非難する記述がウェブにしばしば見られるが、彼は命令に従って忠実に作戦を遂行した一兵卒に過ぎない。彼にその責任を問うのは酷に過ぎよう。彼にしてみれば、十数万人の大虐殺に直接係わったのであるから、その正当性を信じ込まなければ、生きて来られなかったであろう。彼も、ある意味では、原爆の犠牲者といえなくもない。
米軍は、原爆投下によって日本の降伏が早まれば、100万人の米兵と数百万人の日本人の命を救うことになると考えていたとされる。これは、マンハッタン計画の実質的な最高責任者であり、ルーズベルト、トルーマン両大統領に原子爆弾の日本への投下を進言し続けたヘンリー・スティムソン陸軍長官が大義名分として掲げたものである。その見解が実際に公表されたのは、1947年2月号のHarper's Magazineにおいてであるが("The Decision to Use the Atomic Bomb", HENRY L. STIMSON, Harper's Magazine, Feb. 1947)、これがその後の米国人が信じる原爆投下の正当性の源流となった。この数字が何を根拠に算出されたのかは不明とされている。
いずれにせよ、トルーマンはこの見解に与し、実戦における実験でもある原爆投下を決断したのである。彼は、1945年8月9日、長崎への原爆投下直後に、"We have used it in order to shorten the agony of war, in order to save the lives of thousands and thousands of young Americans."(「我々はそれ(原子爆弾)を使用したところである。戦争の苦しみを終息させるために、数百万のアメリカの若者の命を救うために。」)と声明を出している(97. Radio Report to the American People on the Potsdam Conference, August 9, 1945, Harry S. Truman Library and Museum)。国民の理解を得るためであろうか、彼はかなり誇張した数字(thousands and thousands of、単に「無数の」という意味でもある)を用いてはいるが、この表現からトルーマンはスティムソンの進言を受け入れて原爆投下を決意したものと考えられる。そして、"We shall continue to use it until we completely destroy Japan's power to make war. Only a Japanese surrender will stop us."(「我々は日本の戦争を遂行する能力を完全に破壊するまで原爆を使用し続けるであろう。日本の降伏だけが我々を止めることになろう。」)と結び、次の原爆投下を既に了承していたことが窺える。さらに、日本が降伏しなければ、次の原爆の組み立てが準備されており、三発目の投下があったことが明らかとなっている。
原子爆弾製造に踏み切ったルーズベルト大統領、原爆投下の最終的な決定を下したトルーマン大統領、終始日本への原爆投下に指導的な役割を果たしたとされるスティムソン陸軍長官を始め、この決定に関与した米政府ないし軍関係者のこの歴史的大罪における責任は、明確にしておくべきである。
しかし、そうではあるものの、日本人はいつの間にか米国を赦したのである。
歴史教科書にしろ記念館(紀念館)にしろ、かの国々はそれによって闇雲に他国への憎悪と怨念を増殖させることに如何なる意義を見出だしているのか。憎悪と怨念に充ち満ちた民に何を望み、何処へ導こうというのか。煽りたぎらせた憎しみと恨みの先に何を見ているのであろうか。
【参考:『「歴史認識」の憂鬱』、http://blog.phooen.com/blog-entry-44.html】
10年ほど前に、韓国や中国の歴史教科書の邦訳に目を通したことがある。明石書店が『世界の教科書シリーズ』として出版している『韓国の中学校歴史教科書-中学校国定国史』(2005年)と『中国の歴史-中国高等学校歴史教科書』(2004年)である。噂にたがわず凄まじいものであった。これで教育を受けた者が、日本に憎しみを抱かぬ方がむしろ難しいといえよう。何より、その内容の真偽はともかく、これほど偏頗で他の一国を罵るかの如き歴史書をほかならぬ国定教科書としていること自体に、むしろその国の民度ないし文化的成熟度が問われるとは考えないのであろうか。国民は内心忸怩たる思いを抱いているのかもしれない。そうだと信じたいところである。
これらの国の教科書については、「韓国の歴史教科書を読む」(http://www7.plala.or.jp/juraian/ktextbook.htm)、「中国の歴史教科書を読む」(http://www7.plala.or.jp/juraian/ctextbook.htm)というウェブページに詳しく解説されており、この拙文を書くに当たって改めて読ませて頂いた。この樹懶庵(じゅらいあん)というウェブサイトには、「台湾の歴史教科書を読む」(http://www7.plala.or.jp/juraian/ttextbook/ttextbook.htm)というページもあり、これと前二者を比較して読めば、それら二国の歴史教科書の異様さは一目瞭然である。
韓国や中国が言っていることは、多分ある程度は正しいのではないか、と密かに思っている日本人は決して少なくはないが、そのような日本人ですらこれら二国の歴史教科書を読むならば、おそらくは開いた口が塞がらないことになろう。
ただ、韓国では、2007年に国定教科書制度が廃止され、検定制度が導入されており、検定を通過した複数の教科書の中から各学校が使用する教科書を選ぶという日本と似た制度が採用されている。国定制度が廃止されたとはいえ、大多数の学校で採択される歴史教科書はおおむね国定教科書の記述を踏襲するものがやはり主流のようである。
しかしながら、日本への憎しみと恨みをたぎらせ続ける韓国にあって、日本統治時代の明暗両面を客観的に評価しようとする「植民地近代化論」に立つ歴史家達によって、2008年に『代案教科書・韓国近現代史』が検定を通っていないものの一般の書籍として出版されているそうである。これについても上記の樹懶庵亭主の「韓国の歴史教科書を読む」で解説されている。
今はまだ少数派であろうが、そのような良識ある韓国人の活躍に期待し、遠い将来、彼等の思いが朝鮮半島全土に行き渡らんことを密やかに祈りたい。
朴槿恵大統領は、かつて、この代案教科書の出版記念会でその支持を表明したそうである。にも拘わらず、その後の彼女の言動は周知の通りであり、韓国政府部内には再び教科書国定化への揺り戻しの動きが顕在化しているとのことである(「教科書の国定化で朴槿恵が陥る深刻なジレンマ」Newsweek、2014.9.12、http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2014/09/post-3390.php)。
韓国人の日本に対する恨といわれる憎悪と劣等意識とのアンビバレントな葛藤は、彼等自身が乗り越えるしかないのである。
その国の歴史教科書をみれば、その国が他の国に対して如何なる姿勢・態度で臨んでいるか、その基底となる本質を知ることができる。日本を含むこれら三箇国の歴史教科書の英訳をPDF化し、誰でも自由にダウンロードして読むことができるようにすれば、そして、そのダウロード・ページのURLを世界中の主要紙に掲載することができれば、それだけで韓国・中国以外の国におけるこの歴史問題に関する「誤った認識」は、容易に正すことが可能となろう。外務省には是非とも実行して頂きたい。
二、原爆資料館と独立記念館と南京大虐殺紀念館
1.長崎原爆資料館
昨年、久しぶりに長崎原爆資料館を訪れた。随分前に、前身の長崎国際文化会館の原爆資料センターには、何度か訪れたことはあったが、1996年に新設された現在の原爆資料館を訪れるのは初めてであった。
B-29爆撃機ボックスカー(Bockscar)によって投下されたプルトニウム239を用いた原子爆弾、ファットマン(Fat Man)の模型が展示され、エノラ・ゲイ(Enola Gay)によって広島に投下されたウラン235を用いたリトルボーイ(Little Boy)より威力が大きいことなどが説明されている。このような資料館ではお馴染みのジオラマも実に精巧に造られており、原爆投下時の状況やその後の放射能の影響等々、客観的かつ詳細なデータが、様々な工夫が凝らされて展示されていた。以前の原爆資料センターとはかなり異なっていた。
総じて、その展示は、情緒的な扇情的な要素が極力排除され、客観性・正確性に主眼が置かれている印象である。
2.原爆投下
マンハッタン計画が最終段階に進む中、ドイツが1945年5月に降伏してしまい、原子爆弾の標的は日本しか残されていなかった。その日本もほどなく降伏するであろうとの観測を得ていながら、米国は実験に成功したばかりの原子爆弾を日本に投下したのである。
米英ソのヤルタ会談(1945年2月)で、ソ連がドイツの降伏から3か月以内に対日本戦に参加することが極秘裡に決められており、米国はソ連の対日参戦より前に原爆を日本に投下して、戦後処理でソ連より優位に立ちたいと考えていたとされるが、それだけでは原爆投下のすべての説明がつく訳ではない。
もう少し仔細に見てみる。1945年7月16日、ニューメキシコ州オテロ郡のアラモゴード爆撃試験場内の一角にあるトリニティ・サイトにおいて人類史上初の核実験「トリニティ実験(Trinity test)」が行われ、成功する。これは、長崎に落とされたファットマンと同じ構造のプルトニウムを用いたインプロージョン方式(プルトニウム爆縮式)の原子爆弾の爆発実験であった。そのわずか3週間後、実験の行われていないもう一方の方式であるウラン235を用いたガンバレル型の原子爆弾、リトルボーイが広島に落とされるのである。
ガンバレル型も、本来なら実験を経て実戦に投入されるのが通常の筈である。しかし、原子爆弾の実戦投入が急がれる中、ガンバレル型に必要なウラン235の濃度が90%以上(最低70%以上)の高濃縮ウランは生成に非常にコストがかかる上に、生成できる量がわずかであったため、爆発実験に使う余裕がなく、インプロージョン爆縮式が実験に成功したことを踏まえ、ガンバレル型は実験を兼ねて実戦でいきなり使用することが要請された、とする説明がある。実験を経ていない原爆を実戦で使用するとなれば、それを先に持ってきて、万が一失敗したとしても次が成功する方が、成功の後に失敗するより相手国に与える脅威は大きいと判断されたのであろうか。
そういった説明に符合し、真実性を与えるかの如く、テニアン島には、両方式、リトルボーイとファットマンの二発が用意され、リトルボーイが先に使用されたのである。
また、広島への原爆投下が成功した後、さらに長崎へ投下する必要があったのか。広島への原爆投下が成功した以上、しかもその知らせは脅威とともに瞬く間に世界中を駆け巡ったのであるから、米国は日本が降伏するのを、次の投下を匂わせつつ待つこともできた筈である。
これら二発は、マンハッタン計画で開発されてきた二つの異なる方式の原子爆弾であり、軍はそれぞれ実戦における実験を当初より望んでいたと考えられる。両方式の原爆による人体実験を行うからには、互いに影響の及ばない二箇所に投下する必要があったのである。原爆の破壊力を正確に測定するために、通常の爆撃があまり加えられていない広島、小倉、新潟、長崎が投下目標に選ばれ、原爆投下まで通常の空襲は行わないよう指示が為されていたことが明らかになっている。最終目標都市の優先順位は広島、小倉、長崎となり、当日の天候次第で目標都市が決定されることになり、8月6日は広島、9日は長崎となったのである。
原爆使用について、同じ白色人種に対してはいくら敵国であっても抵抗があったが、東アジアの有色人種に対してはさほど逡巡することなく決定されたとも言われる。マンハッタン計画に着手したフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人に対して強い人種差別意識を持っていたことはよく知られた事実である。
この米国の差別意識に基づいて為された、20万人を超える非戦闘員に対する核爆弾による未曾有の人体実験は、一都市に存在する全ての人及び物を殲滅するというその残忍さ、無慈悲さ、その後の長期にわたる放射能等による影響の甚大さを勘案するならば、如何なる理由があったにせよ、単なるmassacre(大量殺戮)ではなく、人類史上最も悪逆無道、悪辣無比の蛮行たるgenocide(大量虐殺)であるとの評価は避けられないであろう。米国の原爆投下は、ナチスのホロコーストと並んで人類史に刻まれ、永劫にわたって人類に記憶され続けることになる。
3.原爆資料館の展示
ところが、この長崎の原爆資料館には、原爆投下の理由ないし投下に至るまでの事情については、あっさりとした記述しか見られない。対日戦の早期終結のためと言われているが、巨費を投じたマンハッタン計画を誇示する目的もあったとし、ソ連との冷戦における最初の作戦という性格も有していた、といったごく一般的な説明が為されているに過ぎない。この点については、広島平和記念資料館の方は、米国は、1945年4月、日本国内17箇所を投下目標に選び、5月には京都、広島、横浜、小倉に絞り、原爆の効果を正確に調べるため目標都市に対する通常の空襲を禁止し、7月25日には広島、小倉、新潟、長崎と定め、最終的には8月2日、広島、小倉、長崎を目標とする投下命令を下したことなどが記され、実験目的でもあったことが示されている。しかし、原爆を投下した米国に対する厳しい断罪の言葉は、何度も館内を往ったり来たりしてみたが、何処にも見られない。広島平和記念資料館においても同様であろう。これについては、何とももどかしく、不満に思う人も多いのではなかろうか。
原爆投下後に関する展示は、当然その被害の悲惨さを訴えることに主眼がおかれるが、決して扇情的なものではなく、客観性・正確性に重点がおかれ、抑制的であると感じられた。以前の方が、生々しく、凄惨な展示が多かったような気がする。ここにおいても米国への憎悪や怨恨を煽り、駆り立てる展示は皆無である。
そして、展示は核兵器廃絶や核軍縮をテーマにしたコーナーへと移っていく。
4.原爆資料館と独立記念館と南京大虐殺紀念館
私は館内を巡りながら、もどかしさというよりも憤りすら感じ始めていた。所々に設置してある椅子の一つに腰を下ろして、少し気持ちを鎮めるため館内をゆっくりと見回してみた。原子爆弾を開発し、落とす必要もない場所へ投下してそこに住む人々を人体実験に供して虐殺したのは、ほかならぬ米国である。その米国を直接的に非難する言葉が一言も書かれていない原爆資料館に意味があるのか。広島の原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)の石碑に刻まれた例の主語なき「過ちは繰返しませぬから」に見られるようなあやふやで曖昧な平和の願い・平和の祈念など意味があるのか。貧しい智恵に強いて考えを巡らせた。
目の前を英米人とおぼしき数人と日本人のグループが何やら楽しいそうに話をしながら、私の前を通り過ぎていく。今や何処の観光地にも現れる中国人や韓国人も館内を回っている。
その時、ふと韓国の独立記念館や中国の南京大虐殺紀念館が頭に浮かんだ。浮かんだと言っても、実際に行ったことはないので、ウェブでそれらの公式サイトや訪問者の記事を見たことがあるに過ぎないのだが。彼此の違いは何か。
先ず、その名称。韓国、中国の両館は、日本が行った非道な行為を長く記憶に留めておこうとする意図があろうから、この種の博物館として一般的な「記念館」ないし「紀念館」という名が付されているが、少し特異なのは「南京大虐殺紀念館」である。その中国語の正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」であり、その公式ウェブサイトにある英語名は、"The memorial hall of the victims in Nanjing massacre by Japanese invaders"とされており、博物館の名称としては少し異様であり、日本への憎悪があからさまに見て取れる名称といえよう。これに対し、長崎・広島の両館は、単に「資料館」としており、あくまで原爆に関する客観的な資料を展示することが主眼であると取れる名称である。
南京大虐殺紀念館は、1982年に愛国主義教育推進のため全国に日本の侵略に関する記念館や記念碑を建立するよう鄧小平によって指示が出され、それに基づき1985年に建設された。奇しくも韓国の独立記念館も、1982年に独立記念館建立の発起大会が開かれ、1987年に開館している。長崎原爆資料館は、1955年にその前身である長崎国際文化会館の原爆資料センターが開館し、その後老朽化により1996年に建て替えられたものである。広島平和祈念資料館も同じく1955年に開館しており、2013年から大改修が行われ、2018年完了予定である。
韓国や中国の記念館や紀念館が、その展示が客観的な検証を経た事実に基づくものであるか否かは別として、醜悪でグロテスクともいえる展示方法で日本への憎しみや恨みを顕わにし続けていることは、夙に有名である。それらは歴史教科書にも通底する両国の意思と姿勢が露骨にむき出しとなっている場といえる。国家の存立の基点に邪悪な国家からの解放を据え、その正当性を高らかに謳い上げるという物語としての歴史はいずこにもあろうが、同時にその表示手法・表現方法には、国家の本性が端なくも顕わになる。それを見る者は、語られる客体ばかりでなく、その語り口に、語る主体の内奥に潜む他在へ向けられる意思の本質を垣間見ることになる。何ゆえにこのような手法・方法で見せようとするのか、見せられた者は否応なく問わざるを得ないであろう。
かたや、長崎・広島の資料館には、原爆投下の主体たる米国への憎しみや恨みどころか、その罪を問う文言すら殆どない。そこでは原爆投下までの経緯は淡々と語られ、投下の時点から「被爆」という原爆投下の主体無き言葉が多用される。投下主体を欠いたまま、「被爆」に関する事柄のみが縷々語られるのである。「繰返しませぬから」と本来誓うべき、人類史上最大の「過ち」を犯した米国への恨み辛みは、知らぬ間に核軍縮、核兵器廃絶といった世界平和の希求へと転換され、拡散し、おぼろにかすみ、雲散霧消してしまう。
このような展示方法に不満を持ち、憤りを感ずる人は少なくない。とはいえ、韓国や中国のような展示方法は、如何なる場合であっても、とるべきでないことは言を俟つまでもない。英米人と日本人が楽しげに館内を巡りつつ、時に哄笑が沸き起こっている様子を眺めながら、これでいいのではないか、と私には思えてきた。もどかしい曖昧模糊としたこの展示姿勢はあながち無意味ともいえないのではないか。罪を犯した者にいつの間にか赦しを与えるという日本人の精神性の懦弱さともいえる点における好ましい面ということができるかもしれない。爾後、米国人と如何なる関係を築くべきなのか、築きたいのか。この館内に、この館を訪れる人達の姿にその答えはある。
5.原爆投下に対して
「其の罪を悪んで其の人を悪まず」とは、『孔叢子』刑論にある孔子の言葉に由来するらしいが、その中国の南京大虐殺紀念館にそのような思念は寸毫も見出だすことはできない。韓国の独立記念館、然り。
日本人が言うべきことではないという。足を踏んだら、踏んだ人が謝るのは当然であるという。むべなるかな。踏まれた方は怒り、憎み、恨むのも当然というのであろう。しかしながら、米国は未だに原爆投下については正式に日本に謝罪をしていない。それどころか、多くの米国人は今もなお「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と信じている。このような内容の見解は、多くの米国の歴史教科書に原爆投下を正当化する立場のものとして掲載されている。2014年7月28日、原爆を投下したエノラ・ゲイの最後の搭乗員セオドア・ファン・カーク(Theodore Van Kirk)が亡くなった。ボックスカーの搭乗員は既に全員死亡しているので、これで原爆投下に直接携わった全ての飛行士は鬼籍に入ったことになる。彼もまた、その手記やインタビューで同様の発言をしている。
なお、彼の発言を取り上げ、その責任を問い、彼を非難する記述がウェブにしばしば見られるが、彼は命令に従って忠実に作戦を遂行した一兵卒に過ぎない。彼にその責任を問うのは酷に過ぎよう。彼にしてみれば、十数万人の大虐殺に直接係わったのであるから、その正当性を信じ込まなければ、生きて来られなかったであろう。彼も、ある意味では、原爆の犠牲者といえなくもない。
米軍は、原爆投下によって日本の降伏が早まれば、100万人の米兵と数百万人の日本人の命を救うことになると考えていたとされる。これは、マンハッタン計画の実質的な最高責任者であり、ルーズベルト、トルーマン両大統領に原子爆弾の日本への投下を進言し続けたヘンリー・スティムソン陸軍長官が大義名分として掲げたものである。その見解が実際に公表されたのは、1947年2月号のHarper's Magazineにおいてであるが("The Decision to Use the Atomic Bomb", HENRY L. STIMSON, Harper's Magazine, Feb. 1947)、これがその後の米国人が信じる原爆投下の正当性の源流となった。この数字が何を根拠に算出されたのかは不明とされている。
いずれにせよ、トルーマンはこの見解に与し、実戦における実験でもある原爆投下を決断したのである。彼は、1945年8月9日、長崎への原爆投下直後に、"We have used it in order to shorten the agony of war, in order to save the lives of thousands and thousands of young Americans."(「我々はそれ(原子爆弾)を使用したところである。戦争の苦しみを終息させるために、数百万のアメリカの若者の命を救うために。」)と声明を出している(97. Radio Report to the American People on the Potsdam Conference, August 9, 1945, Harry S. Truman Library and Museum)。国民の理解を得るためであろうか、彼はかなり誇張した数字(thousands and thousands of、単に「無数の」という意味でもある)を用いてはいるが、この表現からトルーマンはスティムソンの進言を受け入れて原爆投下を決意したものと考えられる。そして、"We shall continue to use it until we completely destroy Japan's power to make war. Only a Japanese surrender will stop us."(「我々は日本の戦争を遂行する能力を完全に破壊するまで原爆を使用し続けるであろう。日本の降伏だけが我々を止めることになろう。」)と結び、次の原爆投下を既に了承していたことが窺える。さらに、日本が降伏しなければ、次の原爆の組み立てが準備されており、三発目の投下があったことが明らかとなっている。
原子爆弾製造に踏み切ったルーズベルト大統領、原爆投下の最終的な決定を下したトルーマン大統領、終始日本への原爆投下に指導的な役割を果たしたとされるスティムソン陸軍長官を始め、この決定に関与した米政府ないし軍関係者のこの歴史的大罪における責任は、明確にしておくべきである。
しかし、そうではあるものの、日本人はいつの間にか米国を赦したのである。
歴史教科書にしろ記念館(紀念館)にしろ、かの国々はそれによって闇雲に他国への憎悪と怨念を増殖させることに如何なる意義を見出だしているのか。憎悪と怨念に充ち満ちた民に何を望み、何処へ導こうというのか。煽りたぎらせた憎しみと恨みの先に何を見ているのであろうか。
【参考:『「歴史認識」の憂鬱』、http://blog.phooen.com/blog-entry-44.html】